菊次郎の夏/北野武

2007/7/14
この映画から、北野武は非常に「日本」を意識するようになったのではないかと思えた。それは、作品冒頭に出てくる浅草の下町的な描写、競輪やバイパスの駐車場などの郊外的描写、田舎の自然や夏祭りを描いた地方の描写に表れている。それらの場所は今の日本の典型的な三つの部分と言えるだろう。「母親さがし」という普遍的なテーマをこれらの風景の中で取り上げることで、かつての国際的な監督がそうであったように、今の日本を海外に知らせようという意識が見て取れる。
それに加えて、この作品では北野映画に特有な一つのテーマが、よりわかりやすい形で表れている。それは、社会のウラ側の人間が社会のオモテ側に関わることで起こる破綻、とでも言うべきものだ。主人公の少年や菊次郎、彼らを取り巻く人間は、社会のウラ側の人々であり、少年や菊次郎の母親はオモテ側の住民である。そして、少年が母親の現在の家族を見て呆然とする場面は、その破綻をもっともわかりやすい形で表わしたものであろう。少年や菊次郎たちの風変わりな衣装や行動は、社会のウラ側で生きることを運命付けられた人々の誇張されたシンボルのように見て取れた。そのように見れば、彼らの「遊び」や「ギャグ」にも、強いられた運命の中で生きていくしかない、彼らの悲しみを感じた。