隠喩としての建築/柄谷行人

2007/2/11-2/17
「数学者にとって、ゲーデルの証明は、モリス・クラインがいうように絶望的なものだろうか。実際の数学の発展は、数学の基礎などに関知しない“応用数学者”によってなされており、また数学の発展は、実はむしろ“非合理的”になされてきたのである。したがって、ゲーデルの不完全性の定理は、数学を不確実性に追いやったというべきでなく、むしろ数学に対して不当に要請されていた「確実性」から数学を開放したというべきであろう。
いいかえれば、あたかも数学を規範にするようにみえながら、実際はそのことによって自らの基礎の不在をおおいかくしていた「建築的なもの」の幻影から、数学を開放したのである。数学はトートロジカルな堅固な建築としてあるかのようにみえはするが、実は、そうではないがゆえに多数的なものとして発展してきたのであり、それ自体歴史的なのである。」(84)
マルクスが工場に先行するものとしてマニュファクチュアをとりあげたことは、ジェイコブスが農村に先行するものとして原都市をとりあげたことと類似している。重要なのは、歴史的順序の問題ではなくて、資本主義的な発展の秘密が、「工場」ではなく「マニュファクチュア」に存するということであり、また、工場の成立という、それ自体偶然的な出来事を必然化してしまう倒錯を系譜学的に示したことである。」(118)
「哲学の「意味」を哲学の内部で決定することはできないのだ。それを決めるのは、哲学の「外部」であり、あるいは、形式の「外部」である。だが、「外部」は、それとして把握されるかぎり、もはや外部ではない。ここに、ド・マンがいった形式主義=牢獄の深刻さがある。」(141)
「重要なのは、他社との関係において生じる不確実性が、「全知の神」も知りえないようなものだということである。いいかえれば、他者は「神」に代替できないのだ。というのも、「全知の神」は、他者ではなく、自己の想像的な全能化にすぎないからである。」(160)
「古典経済学は、どの商品にも「共通の本質」、すなわち人間的労働が含まれているからだと考える。しかし、実際は逆である。それらは現に交換されたから、「共通の本質」をもつのだ。だからまた、私が書いた本の印税でオレンジを買うとすれば、私のいわゆる精神労働とオレンジを生産するフロリダかどこかの農民の肉体労働が等置される。しかし、それらが共通の「人間的労働」となるのは、単に等置された結果にすぎない。われわれは、売買を通して、世界中の人間と関係づけられているが、そのことを「知らない」のだ。すなわち、「社会的」なものは、ある種の不可逆的な無知(無意識)をはらんでいる。」(190)
「要するに、資本主義の動力は、むしろ消費を断念してでも、交換の権利、すなわち貨幣を獲得しようとする欲動なのである。くりかえしていえば、それが貨幣のフェティシズムである。貨幣のフェティシズムとは、使用価値の消費(快)を断念することによって、いっそうの快を得ることである。(略)蓄積の欲動、そして資本の運動こそ、逆に、必要以上の必要、過剰な欲望をわれわれに喚起するのである。」(218