ナボコフ短編全集Ⅱ/ナボコフ


2006/9/27読了

ナボコフ後期短編の集成。
ストーリー展開についていくのが難しい作品も多かったが、作品中の言葉には、はっとさせられるものがあった。印象に残っている短編を2つ。

『フィアルタの春』

「そして僕の顔をまじまじと見つめ、僕の名前をじっと聞いてから、彼女は唇から植物の茎のように長いシガレット・ホルダーを離し、長く引き伸ばしながら嬉しそうに「まさか!」と叫んだ。すると、ただちに皆に−そして真っ先にニーナ自身に−僕たちが古くからの友達のように思えたのだ。彼女はキスしたことなどまったく覚えていなかったけれども、その代わり(やはりキスを通じて)何か琴線に触れるような大事なことがあったという漠然とした印象が残っていた。それは友情の記憶のようなものだが、肝心の友情は僕と彼女との間には一度も存在しなかったのだ。そんなわけで、その後積み上げられていった僕たちの関係も、もとはと言えばすべて、ありもしない架空の幸せの上に築かれたのだということになる。」

記憶は私たちが考えている以上に不完全であり、かつて有ったことを無かったかのように考え、その逆にも考える。ニーナという女性との係わりが、主人公の記憶の推移をたどるように描かれる。

マドモワゼル・O』

「よく経験することだが、小説の登場人物たちに私の過去の大切な思い出を与えてしまうと、突然押し込められた作り物の世界の中でその思い出はやせ細ってしまいがちだ。それは依然として頭の中で消えないでいるとはいえ、そのぬくもりや、思い返すときに感じる魅力は失われてしまい、芸術家に触れられることなど想像もできないように思えた以前の自分よりも、私の小説とぴったり重なっていく。往時の無声映画によく見られたように、家々は記憶の中で音も無く崩れてしまい、一度、ある作品の中で一人の少年に貸してやった年配のフランス人女性家庭教師の肖像は、見る見るかすんでいって、いまでは、私の少年時代とまったく関係の無い別の少年時代の描写に取り込まれてしまった。一人の人間たる私は小説家たる私に反撃を試みる。以下の物語は哀れなマドモワゼルから、まだ消えないでいるものを救い出そうとする、そんな必死の試みである。」

かつて作者の家庭教師として働いていた、マドモワゼル・Oの思い出を回想する話。随所に美しい表現が見られるが、思いでそのものの美化は限りなく防いである。