二月に鑑賞した作品

2/2 『ワイルド・アパッチ』 ロバート・アルドリッチ
2/7 『レベッカ』 アルフレッド・ヒッチコック
2/11 『去り行く男』 デルマー・デイヴィス
2/13 『ザ・ストリートスタイル』 高村是州
2/15 『さらば青春の光』 フランク・ロッダム
2/17 『素直な悪女』 ロジェ・ヴァディム
2/22 『悲しみよこんにちは』 オットー・プレミンジャー
2/24 『アニマル・ハウス』 ジョン・ランディス

一月に鑑賞した作品

1/5 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序』 庵野秀明
1/7 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』 庵野秀明
1/8 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q』 庵野秀明
1/22 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)²』 庵野秀明
1/24 『宝石と鉱物の文化誌』 ジョージ・フレデリック・クンツ
1/25 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』 庵野秀明
1/28 『AKIRA』 大友克洋
1/29 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 庵野秀明
1/30 『新記号論』 石田英敬

十二月に鑑賞した作品

12/2 『縛り首の木』 デルマー・デイヴィス
12/8 『ブラック・レイン』 リドリー・スコット
12/9 『ベートーヴェンとピアノ 「傑作の森」への道のり』 小山実稚恵/平野昭 
12/10 『決斗!一対三』 ラオール・ウォルシュ
12/11 『マトリックス』 アンディ・ウォシャウスキー/ラリー・ウォシャウスキー
12/14 『白い恐怖』 アルフレッド・ヒッチコック 
12/16 『追われる男』 ニコラス・レイ
12/18 『「古今和歌集」の創造力』 鈴木宏子
12/27 『身替座禅』 片岡仁左衛門中村芝翫
12/28 『阿久悠松本隆』 中川右介
12/29 『曽根崎心中』 中村鴈治郎中村扇雀中村梅玉

十一月に鑑賞した作品

11/2 『汚れた英雄』 角川春樹
11/4 『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』 ガス・ヴァン・サント
11/9 『天国にいちばん近い島』 大林宣彦
11/12 『卒塔婆小町』 観世清和
11/23 『山猫 完全復元版』 ルキノ・ヴィスコンティ
11/25 『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 ベートーヴェン』 ひのまどか
    『アナと雪の女王2』 クリス・バックジェニファー・リー
11/30 『汚名』 アルフレッド・ヒッチコック

十月に鑑賞した作品

10/5 『駅馬車』 ジョン・フォード
10/7 『愛情物語』 角川春樹
10/12 『キャバレー』 角川春樹
10/15 『アパッチ砦』 ジョン・フォード 
    『怪奇小説精華』 東雅夫
10/19 『早春物語』 澤井信一郎
10/22 『黄色いリボン』 ジョン・フォード
10/26 『人間の証明』 佐藤純彌
10/29 『リバティ・バランスを射った男』 ジョン・フォード
    『源氏物語私見』 円地文子

『西部劇論 その誕生から終焉まで』吉田広明 4/4

・六〇~七〇年代には、アメリカなるものについて、疑義を呈する西部劇として、一連の「アッシド・ウエスタン」が作られる。西部劇には活劇志向とアメリカを問う自制的傾向があり、後者は四〇~五〇年代で言えばノワール、六〇~七〇年代で言えばカウンターカルチャーという具合に、時代(アメリカ社会の転換期)の色を帯びながら露呈する。(341)
□ 最後の一章は、クリント・イーストウッド論となっている。
・1965年の『荒野の用心棒』は、「既知」こそが新鮮さを担保したという意味で新しさがあった。古典期の西部劇のシンプルな換骨奪胎、ヒーローのありようの回帰。この作品に限らず、イーストウッドの西部劇には、どこかですでに見たことがあるような印象がつきまとう。(366)
イーストウッドは『アウトロー』において、彼の西部劇のスタイルを確立する。それは典型を利用しつつ、そこから逸脱し、新たな解釈やひねりを加えること。『ペイルライダー』までは、この方法論のヴァリエーションであり、洗練であるのだが、やがでその典型時代を疑うときが来る。(381-382)
・『許されざる者』では、西部劇における暴力、銃、そして観客のあり方に、根本的な疑いが向けられる。主人公はリンチされ殺された仲間の復讐として、「丸腰の」保安官やリンチに加わっていない酒場の店主を打つ。保安官にしても、町の秩序を守る名目で、必要以上のリンチ行為に及び、それはサディズムの様相を帯びる。そして、許容を超えた暴力に、観客は歓喜するという構造。それらを暴き出すことが、この映画をどこか居心地の悪いものにしている。(398)
・そして、『許されざる者』では、言葉ないし伝説、神話も同じように見直される。(イーストウッドによれば「西部を脱神話化する寓話」)。たとえばガンマンの境位について。殺すことはたやすくない、銃はいつも発砲されるとは限らない、狙いがいつも正確とは限らない、こららの事が映画の中で繰り返し描かれる。西部劇の主人公であるということは、暴力の無根拠に、自身の伝説の不条理な増殖に、曝され続けることであり、そのことを作品のテーマとしたことに、この作品の究極的なところがある。(398,401)

『西部劇論 その誕生から終焉まで』吉田広明 3/4

・西部劇が、西部にとっての「イメージ」、神話となった時、西部劇はみずからの根拠を問い直し、拡張的であり未来志向である方向性を転換し、内向きになる。そのような時期に、叙情的な作品を得意とするニコラス・レイは西部劇と出会い、『無法の王者ジェシィ・ジェイムズ』や『大砂塵』などでよそ者や落伍者を描く。それは、西部劇に対する自己批判ともなった。(212)
・五〇年代後半から六〇年代、ジョン=フォードはその映画の中で、曖昧なものを曖昧なままにしておくような煮え切らない態度をとるようになる。いわば、掟(自分の身は自分(の銃)で守る)と法(銃による解決の否定)の両方を尊ぶ姿勢。政治上の急進主義が際立つ六〇年代に、このフォードの姿勢に市民としての良識を見ることもできるだろう。(221,225)
・五〇年代後半の「ラナウン・サイクル」に見られるように、この時期、主人公以上に複雑な造形を施された、魅力的な悪役が登場してくる。これは、悪役のステータス上昇というより、正義の側のそれの低下のせいであり、その傾向は、以後の歴史修正主義的西部劇で加速する。心理的深みは、次第に正義から悪の側に移行するのだ。(252-253)
・透明性と不透明性の関係で言えば、西部劇は五〇年代のマンやレイにおいて不透明性のほうに大きく傾き、五〇年代後半~六〇年代のフォードやベティカーで拮抗する。この揺り戻しはさらに進み、遊戯的西部劇は『荒野の七人』などで典型的に実現する。その傾向は、物語の外形だけがアメリカからイタリアに移された、スパゲッティ・ウエスタンに引き継がれることになる。(254)
・『俺たちに明日はない』等を撮った、アーサー・ペンの作品の主人公たちは、まだ自分の世界を持たない、未成熟な者たちである。しかし、彼らに対峙する社会の方も、匿名的な破壊衝動を持っており、主人公たち以上に狂っている。それは、主人公が成熟した大人たちである、同時代のペキンパーの作品とは対極的である。(295)
・スタジオ・システムが崩れ、古典的な語りに変る様々な実験、模索がなされた六〇年代に、一度ジャンル映画は衰退する。だが、それは七〇年代に復活し、西部劇でいればアルトマンにおける『ロング・グッドバイ』となるが、そこにはジャンルに対する愛惜と批判という、相反する感情があった。だが、そのアイロニーは後に失われ、ギャング映画『ゴッドファーザー』や怪獣パニック映画『ジョーズ』を生むことになる。(301-302)
・1972年に公開された『ワイルド・アパッチ』では、先住民を善、白人を悪として描いていた歴史修正主義的西部劇への回答として、先住民を白人同様の残虐性を持つ、単なる他者として描く。そこでは、歴史修正主義的西部劇が持っていたある種の偽善性が暴かれ、真の意味での歴史に対する反省的視点が見出される。(333-334)