『近代世界システム論講義』 川北稔 2/2

ポルトガル人がアジアに進出したころ、すでにアジア内には広域商業ネットワークがいくつか存在した。またそれらは奢侈品だけでなく、生活必需品も交易対象としており、例えば香料の完全なモノカルチャー地域となっていたバンダ諸島は、食料の外部からの補給なしには日常生活も成立しにくい状況であった。(55)
・スペインやポルトガルの「大航海時代」は、大西洋や北海をまたぐ大規模な近代世界システムをもたらした一方で、これらの国による政治的支配は失敗した。その後のナポレオンやヒトラー、国際共産主義の失敗からもわかるように、近代世界史システムとは、経済的分業体制としてしか存続しえない。(72)
・イギリスは世界で最初の産業革命に成功したために大英帝国を作り上げたのではない。財政能力による豊富な軍事費で戦争につぎつぎと勝利し、世界システムの中核にのし上がることで、産業革命の基盤ができた。(94、100)
・イギリスは、アメリカ南部の砂糖やカリブ海の砂糖と同様、ニューイングランドを造船資材の供給地にしようとしたが、この計画は挫折した、もしこれが成功していれば、大量の資本がつぎ込まれ、何らかの意味での「強制労働」も導入され、現在のニューイングランドも多少「低開発」の傾向を持っていたはずである。(120)
アメリカ独立前の北部植民地は、カリブ海域への穀物や材木の輸出、ラム酒の取引や開運収入などによって、イギリス商人に対する購買力を得ていた。ニューイングランドの植民地は、閉鎖社会を形成しており、ピューリタニズムを信奉するヨーマン的な農民の勤勉によって購買力を獲得した、という考え方は、世界システムの作用を無視した「戦後史学」の大誤解である。(139)
世界システム論の考え方から見れば、市民革命がフランスに起こった理由は、ヘゲモニー争いでイギリスに破れ、早急に体勢を立て直し、イギリス型の財政・軍事国家に移行することが必要になったからである。また、アメリカ独立革命ラテンアメリカの独立は、「周辺」から「半周辺」への移行、つまり従属状態からの脱却を目指す運動であり、その意味でラテンアメリカではこの運動は失敗に終わった。
 世界システムの「周辺」地域は、いったん支配的な中核国との関係を暴力的にでも断ち切らなければ、その立場からは脱出できない。旧ソ連鉄のカーテンで、日本は鎖国により「周辺」となることを免れたのである。
 一連の革命を、貴族の寡頭支配への抵抗や自由・平等・博愛の実践としてのフランス革命と、その思想の影響によりラテンアメリカの独立ととらえてしまうと、その経済学的な側面を完全に見落とすことになる。(171-174)
世界システムが全地球を覆うようになると、かつてのアフリカ人奴隷のように「システム外」からもち込まれる労働力は存在しなくなる。そうなると「周辺」地域間で労働力を移動させ、より適切な配置にする以外に方法がなくなる。その例は、南アフリカの鉱山(アフリカ大陸内部の移動)やアジアのプランテーション(近隣地域からの大量の労働力の移動)に見られる。(198-199)
世界システムの作用にもとづく「都市雑業」の集中は「中核」のみならず「周辺」諸国においても、首都への人口集中をもたらす。いわゆる開発途上国の首都には、異様な人口集中が起こるのがふつうである。(202)
・イギリスのヘゲモニーが衰退しはじめたころ、近代世界システムが地球のほぼ全域を覆い、新たな「周辺」を開拓する余地がなくなった。これが、「アフリカ分割」を契機とした領土争奪戦をもたらすことになる。(222)
・近年のインドの台頭には、情報通信技術の展開が大きな力となっている。かつて開発とは、すなわち工業化のことであったが、「生産」に基礎をおかず、金融と情報を基礎とする地域が世界システムの中核の一部となるとき、世界システムのあり方は、変わらざるをえなくなるだろう。(241)