風の歌を聴け/村上春樹

2007/10/8-10/14
「私はこの部屋にあるもっとも神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきり空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。どんな風に苦労し、どんな風にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている。
ハートフィールドが「ジャン・クリストフ」をひどく気に入っていた理由は、ただ単にそれが一人の人間の誕生から死までを実に丹念に順序どおりに描いてあるという点と、しかもそれが恐しく長い小説であるという点にあった。小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるものでなくてはならないというのが彼の持論であったし、その正確さは量に比例すると彼は考えていたからだ。
トルストイの「戦争と平和」については彼は常々批判的であった。もちろん量について問題はないが、と彼は述べている。そこには宇宙の観念が欠如しており、そのために作品は実にちぐはぐな印象を私に与える、と。「宇宙の観念」という言葉を彼が使う時、それは大抵「不毛さ」を意味した。
彼が一番気に入っていた小説は「フランダースの犬」である。「ねえ、君。絵のために犬が死ぬなんて信じられるかい?」と彼は言った。」(123-124)
「僕たちはもう一度黙り込み、突堤にぶつかる小さな波の音を聞きながらずっと黙っていた。それは思い出せぬほど長い時間だった。
気がついた時、彼女は泣いていた。僕は彼女の涙で濡れた頬を指でたどってから肩を抱いた。
夏の香りを感じたのは久しぶりだった。潮の香り、遠い汽笛、女の子の肌の手ざわり、ヘヤー・リンスのレモンの匂い、夕暮の風、淡い希望、そして夏の夢……。
しかしそれはまるでずれてしまったトレーシング・ペーパーのように、何もかもが少しずつ、しかしとり返しのつかぬくらいに昔とは違っていた。」(140)