『西部劇論 その誕生から終焉まで』吉田広明 1/4

 昨年から、BSプレミアムで週1回放送されている西部劇映画。最初は、「なぜ今更西部劇?」とも思っていたが、今までこのジャンルをあまり見ていなかったこともあり、継続的に見続けている。
 BSプレミアムの映画で、同じジャンルの映画を1年以上にもわたって放送しつづけることは異例であり、それだけ反響も大きいということなのだろう。
 この『西部劇論』は、2018年に出版された西部劇の研究書。西部劇には、基本的には同じような話が多いにもかかわらず、何作も飽きずに見続けられる不思議さがある。この本を読むと、演出はもちろんのこと、映画の根底にある思想が、過去の作品を乗り越えるのような形で変化を続け、同一ジャンルの中で豊かな作品群が生み出されたことが、その理由であると思える。それだけ、西部劇にはジャンルとしての柔軟性があったのだ。
 1970年代以降、西部劇の数は激減する。その理由を著者は、スタジオ・システムの崩壊に絡めて説明しているが、日本のテレビドラマで時代劇が衰退したように、単純に人気がなくなったことも理由の一つではないかと思う。
 ヒーローとは、正義とは、アメリカとは?それは、(あえて書くが)古くさいカウボーイの姿では、もはや描けない。70年代以降、それらのテーマはSF映画で描かれるものとなり、近年はアメコミ・ヒーローがその器となっていることは、多くの観客が感じていることだろう。その意味では、ジャンルとして終わったと思える西部劇映画でも、その思想は形を変え、今でも生き続けていると言えるのだ。
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・歴史的な存在でしかなかったカウボーイが、1920年台の『ヴァージニアン』などで世俗世界の英雄として描き出される、いわば「異種交配」されたことが、西部劇の特異性を生み出した。(31)
・1930年代末、西部劇は東西、新旧、法と無法、牧畜と農業、農業と工業などの二項対立を生成し、深刻な葛藤を設定するのに適した舞台となった。その葛藤がギリギリまで推し進められ、解決しようがない次元に行きつくとき、「デウス・エクス・マキナ」としてメロドラマが使われるようになる。(49)
・1930年代に形作られた古典的な西部劇においては、決まりきったパターンや人物像系が多い。俳優が変わっても、観客が期待する人物造形の型(匿名的な、銃を身につければ立ち上がるイメージ)があればよい。逆に言えば非古典的西部劇では身体は匿名的なものでなく、例えば『真昼の決闘』はゲイリー・クーパー無しには、『明日に向かって撃て!』はニューマンやレッドフォードの長い肢体と軽やかな立ち振る舞い無しには成り立たない。(59)