『錯乱のニューヨーク』レム・コールハース 1/4

 現代建築を学ぶものにとっては必携と言われる本書。内容はニューヨークの19世紀末から20世紀半ばまでの建築の様相を巡る列伝ともいうべきもの。奇人伝を読んでいるような趣もある。
 『摩天楼』や『過密の文化』というキーワードで、いち巨大都市の建築史が、こうも見通しよく語られてしまうことに驚き。コルビュジェやボザール建築を頭でっかちなものとして批判し、大衆的、身体的な過密の文化を評価しているのだとすれば、この書もポストモダン思想の影響を色濃く帯びている(あるいは大きな影響を与えた)ということか?

ルナ・パーク

 たとえ月面上であろうとも、トンプソンは初めてタワー都市というものを作り上げる。都市的機能はないが、想像力を過剰に刺激し、地上的現実とみなしうるあらゆるものを遠ざけるという機能だけは例外としてそなえている。そこで今や彼は電気――新たなイリュージョン演出設備にとって不可欠な要素――を建築の複製装置として用いる。
 太陽のあけすけな光の下では、ルナの小さなタワーは安っぽいアウラを放つだけの痛々しい存在だが、そのスカイラインに電線や電球のソケットのネットワークを重ね合わせることによって、トンプソンは第二のスカイライン、第一のものよりさらに印象的ですらある幻のスカイラインを描きだす。ここにもうひとつの夜の都市なるものが誕生する。(67)

ドリームランド

 ドリームランドはコニー上空の毎日のフライトを、一見それと対立するマンハッタン上空の一時間毎のフライトのシミュレーションの場にしてしまう。現実は今や夢を超越し、ドリームランドが暗示する意味を強化する。その意味とは、未来は空想に限りなく近づく、そしてこうした接近の発生する場がこのドリームランドであるということなのである。(96)

公園論争

 彼ら(マクシム・ゴーリキーたち)の感性は、「剥げかかった白いペンキ」に傷つき、操られるがままの大衆に憐憫を催し、彼ら自身の保存の行き届いた非現実的なアルカディアと比較して中央地帯の見世物が下らないとこき下ろすのだが、彼らは実はコニーのファサードの外から物を見ているのであり、要するに結局何も見ていないのである。
 誤った分析に基づく彼らの解決策は、当然実効性を描くものとならざるを得ない。公衆の利益のために島を公園にすべきだと彼らはいうのである。……
 公園論争は、現行的な施設を支持する社会改良主義的アーバニズムと娯楽を求める享楽主義的アーバニズムとの間の対決である。それはまた、後に近代建築とマンハッタニズム建築との間で行なわれる一大対決のリハーサルでもある。
 来たる世紀にその決戦に火蓋は切って落とされる。(112-114)