『小鳥たちのために』 ジョン=ケージ 3/3

・(クリスチャン・ウォルフの音楽は)どうしても演奏されなければならない音があるとしても、それ以外の音については、他の音がその音に取って替わることができるでしょう。ところがシュトックハウゼンにおいては、これらすべてのことが闘争というプランの上で要求されている。それはドラマ以上のもの、悲劇です――確定性か不確定性か、これかあれかでなければならないのです。一方ウォルフには自由があります。必要な音が予想外の音によって浸食されることもありうるし、それは少しも構わないのです。あらゆる音が混じり合うことができます。シュトックハウゼンの場合には、同じような考えが明白になるまで強調され、それがあまりにも明白なので、人は音にではなく観念に気を取られてしまうのです。ウォルフには音しかありません。観念ではなく、予期せぬ連続を引き起こす豊かな方法があるのです。(203)
・(世界中の人々に必要なものを与えることは、全体を貧しくすることにはなりませんか?)むしろ逆です。必要なものとは生命を維持するための最低限度のものではありません。それは同時に、またとりわけ、豊かさを内包しているのです。もうだれも、なにもすべきことがないようにならなくてはいけない。無為とはそのことなんですよ。(223)
・(龍安寺の石庭について)私はその庭を前にしたとき驚きました、そして岩はどんな位置にでも置かれえたはずだという印象を受けたのです。……ものにあるがままの姿である自由を許すとき、調和への意識は弱められるのではなくむしろ強固にされますが、それはハプニングの中には見いだせませんね。(245)
・現在確かなことは、私の音楽は他の多くの音楽と違って紀元二千年の人口過剰の時代に対応する準備ができているという点です。すなわちおそらく単なる個人である作曲家がもはや必要とされず――私はそのことを期待しているのですが、音だけで十分であり、音がほかの助けを借りずに音だけで事足りる時代に。私は私の音楽が、環境(エコロジー)の重要性が認められるためになんらかの働きをすることを願っています。しかしこの領域で私が果たすよう定められている役割りを少しも過信してはいません。それは疑う余地もなくささやかな役割でしかないでしょう。環境はひとりでに確立されると固く信じています。(248)

ジョン・ケージ小鳥たちのために

ジョン・ケージ小鳥たちのために