『魔法の世紀』 落合陽一 1/2

 定期的に読んでいるブロマガに記事を投稿している、「現代の魔法使い」こと落合陽一氏のこの本。最近、ふと知人が著者の名前を口にし、同じような興味をもつ人は、意外と身近なところにいるのもだな、と小さな驚きをおぼえた。
 その会話をきっかけに、この本を読んでみると、二人の人物が頭に浮かんできた。一人は、メディア研究者のマーシャル・マクルーハン、もう一人は、現代アーティストのクリスチャン・ボルタンスキー。

メッセージとしてのメディアを作ること

 マクルーハンの主張は、「メディアはメッセージである」という彼のテーゼに端的に示されるとおり、メディア装置そのものがひとつの表現である、というもの。そして、その装置は人間の知覚や身体にも影響をおよぼす。つまり、「メディアはマッサージ」でもある。
 マクルーハン理論から見れば、下に引用した落合氏の考え方も理解しやすくなる。と同時に、私がメディアアートをなかなか理解できないのは、この視点が欠けているからではないか、とも思えた。

 現代の大人たちが乳幼児のようにメディアで涙したり笑ったりできないのは、彼らの生きてきた20世紀が「映像の世紀」だったからではないでしょうか。「映像の世紀」の大きな特徴は、表現とメディアを分離させたことです。人は表現で涙したり笑ったりしますが、メディアで笑ったり泣いたりはしないと考える人は多いでしょう。
 実際、映画館に入った瞬間に泣き出す人や、一眼レフを見て涙が止まらなくなった人や、本の表紙に触ると泣き出してしまう人があまりいないのは、それが「うなずきん」と違ってメディアと表現が分離されていて、メディアそのものには感動の核になる要素が入っていないからです。
 しかし、コンテンツよりもメディア自体がアートとしての価値を持つ、メディアと表現の境目がどんどん曖昧になっていく時代においては、先ほどの乳幼児の例で出てきた原初的な感覚、すなわち「原理のゲーム」の方が大きく台頭してくるのではないでしょうか。(92)