『八月の光』フォークナー 加島祥造訳 4/5

 (リーナの独白)『それにもしあの馬車がジェファスンまでずっと行くのなら、ルーカス・バーチはあたしの姿を見る前にあたしの馬車の音を聞くことになるんだわ。だって彼には、あたしの来たことは分からなくともあの馬車の音は聞こえるもの。だから彼が見ない前から、もう一人別のあたしが彼の中に入ってゆくわけだわ。それから彼はあたしを見てとても喜ぶんだわ。だから彼の気づかない前に彼の目には二人のあたしが現われるわけだわ』(14)
 (新入りの名前がクリスマスだと聞いて)このときはじめてバイロンは自分がこう思いついたことを覚えている――名前というものはただ人間を区別するための記号にすぎないはずなのだが、場合によると名前が当人の未来の行動を暗示するものとなり、いつかは『やっぱりそうだった』と人々にうなずかれるようなことにもなるんだ――と。(46)
 彼女は、自分の番になって、彼に話す――麻袋の肩当てに腰をおろし、身は重たげに、顔は静かで平穏なまま、やはり静かに自分を見守る彼に向って、季節の変化のあの悠然たる足取りに似た調子で、四週間の旅の間に多くの見知らぬ顔に向かってしてきたように話すが、そうすることで彼女は自分が話している以上のものをわれ知らず彼に語っているのだ。そしてバイロンのほうは裏切られて捨てられた若い女の映像(イメージ)、捨てられたのにも気づかず、まだ正式な結婚さえもしていない若い女の映像(イメージ)を得る。(71)
 『その理由はこうなんだ、人間というものは現に持っている面倒な問題には耐えられても、これからぶつかる問題には恐怖を感じるものなんだ。だから慣れた面倒ごとにすがりついて、新しい面倒ごとに入ってゆこうとしないんだ。そうさ。人間ってのは、生きている人たちから逃げだしたいなんてよく口にする。だけども本当に人間に痛手を負わせるのは死んだ人たちなんだ。』(99)
 (クリスマスの夜の生活)それから彼は気がついた。いつの間にか道は坂になっていて、気がついてみると自分はフリードマン・タウンにいて、姿の見えない黒人たちの夏の臭い、夏の声に取りかこまれていたのだ。まるで実体のない声の群れが、彼には分らぬ言葉で何かをささやき、しゃべり、笑いつつ彼を取りまくかのようだった。(149)
 (クリスマスの幼年時代)その部屋にはひとりの男、見知らぬ人が坐っていた。そして彼はその人を見て、院長が話す前にもう何だか知ってしまった。たぶん記憶が覚えていて、その知識が今思い出させたのだろう。たぶん欲望さえ働いたのだ、なぜなら五歳という幼さでは、希望など無駄だという絶望感を学んでいなかったからだ。(184)
 (クリスマスの幼年時代)労働のことより神様のことはさらに知らなかった。……神様のことは日曜日に一度出くわすだけだった。その日曜も――これにつきものの入浴やら着替えといった清潔の面倒くささを別にすれば――ただ音楽が耳に気持ち良いだけであって言葉はまるっきり耳に入りもしなかった――いわば日曜とは、少し面倒くさいが、楽しいものでしかなかった。(188)

『八月の光』フォークナー 黒原敏行訳 3/5

 (クリスマスの彷徨)彼はこの土地で育って大人になり、泳げない船乗りが水に突き落とされて泳ぎを覚えさせられうように、身体の形も物の考え方もこの土地に無理強いされて形づくられたのだが、この土地の実際の形や感触は結局何も知ることはなかった。この一週間、この土地のいくつもの奥まった場所へ密かに潜り込んだが、大地が従わなければならない普遍の掟には無縁のままだった。しばらくの間、休みなく歩きながら、俺が求めていたのはこれなんだと思う――物を見ること、物が見えること――それが安らぎと、余裕と、穏やかさを与えてくれるのだと。(485)
 町の人たちはただ、「あの夫婦は頭がおかしくて、黒人のことでいかれた考えを持ってるんだ。もしかしたら北部人(ヤンキー)かもしれない」と言うだけで放っておいた。あるいは町の人たちが大目に見ていたのは、ハインズが黒人たちの魂を救おうと献身しているからではなく、夫人が黒人たちから施しを受けているのを自分たちが見て見ぬふりをしていたからかもしれない。人間には良心が受け入れない事柄を無視するという都合のいい能力があるからだ。(489)
 今、バイロンはようやく知った。自分が何か眼隠しのようなもので現実を見ないようにしてきたこと、その眼隠しで身を守ってきたことを。その容赦ない厳粛な事実に驚きながら、バイロンは思った。ミセス・ハインズに呼ばれ、彼女の声を聞き、顔を見た時、初めて俺は、彼女にとってバイロン・バンチなんて無に等しい人間だということ、そして彼女が処女じゃないことを、知ったんだ。(573)
 なんと俺は今までブラウンが彼女の男だと本気で信じてなかったんだ。自分のことも、彼女のことも、この件と関わりになったどんな人のことも、言葉の上でしか考えてなかった、実のない言葉の上でしか。……そうだ。今やっと俺はあのブラウンが彼女を孕ませたルーカス・バーチだと信じるようになったんだ。ルーカス・バーチって男がほんとにいるってことを信じるようになったんだ。(574)
 (ハイタワーの回想)父親は自分が反対する奴隷制度を維持しようとした南部連合軍の戦いに積極的に参加し、そのことに矛盾を感じなかったが、それは父親の中に互いに完全に独立したふたりの人間がいたことを示す何よりの証拠だった。そしてそのふたりのうちのひとりは自分の原理原則をすがすがしく守り、理想の開拓時代という実在しない空想の世界に生きていた。(676)

『八月の光』フォークナー 黒原敏行訳 2/5

 (ハイタワーの独白)人はもう起きてしまった面倒よりこれから起きるかもしれない面倒のほうを怖れるからだ。変わることは危ないことだから、慣れている面倒にしがみつくんだ。そう。人は生きている人たちから逃げ出したいとよく言う。でも本当に厄介なのは死んだ人たちだ。死んだ人たちはひとつの場所で静かに寝ているだけで人を引きとめようとしたりしないけれど、逃れられないのは死んだ人たちからなんだ。(110)
 バイロンと向き合っているハイタワーは、まだ恋という考えを頭に思い浮かべてはいない。ハイタワーはただ、バイロンがまだ若く、ずっと独身のまま勤勉に働きつづけてきたことを思い出すとともに、バイロンの話しぶりからすると、自分がまだ見ていないその若い女は少なくとも何か心を騒がせるものを持っているようだが、バイロンはまだ自分の気持ちを同情としか思っていないらしいと考えるだけだ。(120)
 (クリスマスの幼年時代)彼が嫌ったのはきつい労働ではない。理不尽な罰でもない。そういうものには、この夫婦に会う前から慣れていた。それよりいい目に遭おうなどとは期待していなかったから、腹も立たないし、驚きもしなかった。嫌いなのは女だった。あのやわらかな優しさだった。それには一生の間つきまとわれるような気がして、男たちの酷薄で無慈悲な正義よりも憎んだ。(242)
 (クリスマスの少年期)ひざまずき、死んでいく動物のまだ温かい血に両手を浸して、がくがく震え口の中をからからにし、しきりにうしろを振り返った。それから動揺を克服し、立ち直った。これであの少年が話したことを忘れたわけではなかった。ただそのまま受け入れることにしたのだ。……判った。そういうことだな。でも俺には関係ない。俺の人生にも俺の恋にも。これが三、四年前のことで、ジョーはそのことを忘れてしまっていた。ある事実をうそでも本当でもないと頭の中で言いくるめてしまった時、人はそれを忘れてしまったと言える、という意味で、忘れてしまっていた。(265)
 「いえ」とバイロンはいう。それから小さく身じろぎをする。彼もまたリーナと関わり合うことの不都合に眼醒めつつあるような話し方になる。「そうじゃなければいいなと思ってます。俺は自分で正しいと信じることをやろうとしてるんだと思います」――『ああ、この男は今初めてわたしに嘘をついたな』とハイタワーは思う。……『たぶん自分自身に対してですら、今初めて嘘をついたんだ』……『いや、まだ嘘になっていないかもしれないな。この男自身、それが嘘だと知らないのだから』(441)

『八月の光』フォークナー 1/5

 4月に一週間ほどとった休暇、その後の5月の連休を利用し、このフォークナーの名作を再読した。
 おそらく、古典と呼ばれる長編小説を読むのは、今年はこの一冊だけだろう。そう考えると、小説を読むという行為は、自分にとってずいぶんとしんどいものになったものだ。
 今回読んだのは、光文社古典新訳文庫から2018年に発表された黒原敏行訳。以前、2006年に読んだのは新潮文庫加島祥造訳。加島訳の文庫本で、ページの端を折った個所も改めて読んでみたが、当時、自分がどのような文体に魅力を感じでいたか、なんとなくであるが傾向が読み取れる。また、今に比べ自分の性格がしっかりしていなかったせいか、気にいった表現をすべて記憶に残しておきたいと思っていた当時の自分の性格も分かる。
 その一方で、両訳の文庫本を見比べると、何箇所か、共通のページを折ってもいて、これは自分の性格があまり変わらないからなのか、誰が読んでも感心する箇所だからなのかは分からない。
 このような部分を読み比べると、加島訳では、表現を曖昧にし、におわせているような所を、黒原役は意訳により事実をあらわにしていることが分かる。おそらく、直訳では加島訳に近くなるのだろうが、黒原訳でないと、その意味が分からなかった箇所もある。また、黒原訳で読み、再度加島訳で読みなおす事で、小説の味わいが深まるということもあるだろう。黒原訳は、読みやすい一方で、少しあからさますぎる、ミもフタもないきらいがあるのだ。それにしても、翻訳文体が違うだけで、登場人物の性格まで違って見えるから不思議だ。
 最初の話に戻るが、かつても長編小説は数週間かけて読んでいたわけだし、読破までにかかる時間はそう変わらない。今読書が大変なのは、こうやって引用をつらつら書き連ねたり、感想を文章に残したり、かつて読んだ翻訳と読み比べたくなったりするからなのだ。
 読書体験を充実させるには、ある程度の面倒も必要。そう考えれば、手間暇かけ、長い時間を過ごすのも、悪いことではない。

五月に鑑賞した作品

5/3 『現代思想入門』 千葉雅也
5/10 『ショーシャンクの空に』 フランク・ダラボン
5/12 『炎のランナー』 ヒュー・ハドソン
5/17 『ボニーとクライド/俺たちに明日はない』 アーサー・ペン
5/19 『お遊さま』 溝口健二
5/24 『スティング』 ジョージ・ロイ・ヒル
5/26 『隠し砦の三悪人』 黒澤明
5/28 『八月の光』 フォークナー
5/31 『ボヘミアン・ラプソディ』 ブライアン・シンガー

三月に鑑賞した作品

3/1 『ドライブ・マイ・カー』 濱口竜介
3/3 『乱暴者(あばれもの)』 ラズロ・ベネディク
3/8 『くちびるに歌を』 三木孝浩
3/10 『ペギー・スーの結婚』 フランシス・フォード・コッポラ
3/15 『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』 ロジャー・コーマン
3/15 『美しき鐘の声 平家物語1~諸行無常の響きあり』 木村耕一
3/17 『ビッグ ウェンズデー』 ジョン・ミリアス
3/21 『新復興論 増補版』 小松理虔
3/23 『バード』 クリント・イーストウッド
3/25 『光の五島Ⅰ』 鈴木元彦
3/30 『コットンクラブ』 フランシス・フォード・コッポラ ※途中まで