『江戸にフランス革命を』橋本治 3/5

 次の文章は、「江戸はなぜ難解か?」という、かなり長いエッセイに書かれたもの。話は著者の気分にまかせてあちこちに飛ぶが、江戸の人間のかしこさや知恵と、そのかしこさに気づかない愚かしさが書かれている。
 世の中を一気に変えることはしない、世間知を大事にし、身の丈に合ったものの理解をする、これが江戸時代の知恵で、それを一般化して分かった気になって、講釈をたれたり、変わったことして目立ってやろうと色気を出すことが、野暮なのだろうと思う。
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 江戸っていうのは、決して全体の大枠を変えようとはしない。明治維新なんていう発想は持たないまんま、すべてのエネルギーが、まだ"及んでいない細部"ってところに費やされてくの。……その専門分化が「ちょっとおもしろいんじゃない、これ?」っていう感覚で"遊び"を生むのね。江戸っていうものの最高傑作は、結局のところ"遊び"っていう人間文化の頂点を、日常の隅々にまで、あまりにも当たり前に行き渡らせてたっていうことだよね。(186)
「さかがにの」が「蜘蛛」の枕詞であったのを踏まえて、それが遂には「わが背子」が「妖怪変化」の枕詞みたいになっちゃう。元は全然違うんだけれど、そうやって古典の教養ってのが色々と形を変えて、江戸の"庶民"ていわれるような、ホントだったら教養と全然無関係な人達の中に入りこむのね。なんにも知らないけど、知ろうとすれば『古今集』の"本物"まであと一歩っていう下地が出来ちゃうんだよね。今のマンガ週刊誌しか読んでないやつが、それでもへんなこと結構知ってたりするっていうのは、この伝統引いてんだよね。(206)
 誤解をおそれずに言っちゃうとさ、少数の例外をのぞいて、浮世絵師の描いた肉筆画って、ほんとうにつまんないよ。……一遍完成したものがさらに別のものとして仕立て直されるんだから、ゴテゴテになる。浮世絵版画が浮世絵版画として、本派絵師の作品なんかとはまったく別のところで、独自に存在しているそのことを無視して、わざわざ肉筆まがいのものにしちゃってる。(220)
 広重がどう考えたか知らないけど、結果的に広重がやったことっていうのは、「我々の風景を我々のものとして共有しよう」なんだよね。ゴッホが広重の模写をしたのなんて当然だと思う。そんな思想を体現してる絵なんて、絶対にゴッホの知ってる世界にはなかったと思うもの。浮世絵師が版画というメディアを通して達成しちゃった絵というのは、そういう"共有"という思想を孕んでいる絵だったんだよね。(226)
 夫婦を成り立たせる根本がなんらかの形で"愛情"に近いものであっても、愛情ということになったら個々人でその発現様式は違う、その違うところを無視して"一般的な愛情様式"を強制されたらファシズムになるっていうだけの話ですね。
 "農業"ってもんが登場してからの俺の話っていうのは、その底流に"歪んだ愛情"っていうものを妙にちらつかせてるんだけどさ、忠義っていう一般化された愛情を野放しにした結果が、日本というものをだめにしたのよ。(272-273)

『江戸にフランス革命を』橋本治 2/5

 引用した文章からは、その後『ひらがな日本美術史』で展開される橋本治の思想が読み取れる。
 例えば、歌舞伎で過去の歴史的人物の話が、江戸の人間にとって「リアリズム」であるというのは、宇宙人のような土偶の顔が、古代の人間にとってリアルなものであったという主張につながるし、「サッと手早く破される傘」は、戦国時代の飾り兜がもつ、自分を強いと思わせる「実用性」に通じる。
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歌舞伎の論理
・≪時代世話≫という時間概念を導入し、すべての結末を曖昧の中に断ち切る。すべての論理を無効にし、"その中にいる"ということ以外不可能になる。
・歌舞伎は"日常"からやって来る観客に"非日常を提供する。スターや芸人は他人に非日常を提供するために"非日常"という余分を買う。その日常が尋常なものでないのも当然である。
・幕府にとって町人娯楽であった歌舞伎は関係がないものである。問題が生まれるとしたらそれが関係を持とうとすること――その一つが批判である。現在の風俗・事件をそのままドラマとして脚色することを幕府が禁じたのはその為である。(82-85)
 江戸に"哲学"なんかないと思うのは"様式している"ことが江戸のすべてだからだろうと思いますね。"様式している"ことこそが江戸の"てつがく"なんだ、と。
「じゃァ哲学ってなんだ?」って訊かれたら、そんなもん知りません。「ひょっとしたら"哲学"なんてものはなかったんじゃないの?人間の歴史っていうのはみんな、その時代その時代の"その時代している"という実質の積み重ねでしかないんだから」というのが正解なんじゃないのかって思いますから。……もう、ゼェーンブ"江戸"なんだと思うけどな、歴史なんか。ディテールの塊がただそこにある――ただそれだけだから分かんないって言うのは、単なる無精の問題でしかないんだと思う。(114-115)
(歌舞伎の舞台で二枚目がパッと音を立ててカッコよくさす傘が必要とされるように、"サッと手早く破かれるような傘”だって必要なのだ。これを作るのが小道具方の仕事であり、カッコよくさす傘とは違う管轄となっている。)
 我々は実は、「たとえおんなじものであっても、その置かれるシチュエーションが違ってしまえば、同じものがまったく違う意味を持つ」ということに気がつかないでいるだけなのです。"意味が違う"という本質だけを見て、「ただ傘であることだけが同じ」でしかない"表層の類似"にはまったく目もくれない、その江戸の専門職の質の高さに目を剥くべきなのです。(142-143) 

『江戸にフランス革命を』橋本治 1/5

 橋本治的に、江戸文化はどのように見えるか?
 著者の近年の文章に比べれば、あまり明確ではなく、橋本治という人間を知ったうえでなければ、理解しづらい個所も多い。むしろ、その文章から、橋本治の思想を感じるというのが、この本の読み方なのかもしれない。
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 その過去を、過去の持つ呪縛をもう一度改めて解き放つ為にも、人は今改めて、既にして呪縛を纏い終えている自分自身の現在を明確に自覚すべきなのだ。その自分自身を覆う呪縛から自由になる為にも、人は再び、それぞれの呪縛を明確にする意匠を纏うべきなのだ。
"過去"の持つ意味とはそのようなものだ。それを終えて、人は初めて、"過去"という名の"美"を手に入れることが出来る。(18)
 江戸の"現実"とは、江戸幕府を頂点とする武士世界のもので、町人はそれとは関係がない。"理想"と関係のないものは現実的に生きるしかないし、現実から斥けられたものは、平気で"無責任"という特権を行使することが出来る。……そして、江戸の芝居小屋というものは、多分そういうところに存在していたものなんだろうなと、私なんかは思う。江戸の前近代は、"合理主義の近代”なんかと比べてみれば、とんでもなく”幻想的"なものを生み出していた時代ではあるのだろうけれども、その"幻想的"というものの正体は、"平気で現実離れしている"という種類の超現実主義だ。(36-37) 
 そんなシュールなリアリズムが"写実(リアリズム)"であるのだとしたら、それは写される現実が"そういう現実"だからという、前提の相違である。市井の人間は容易に過去の歴史的人物とイコールになり、場所は平気で時間を超える――それが自分たちの生きている現実であると、江戸時代の人間達が了承していたからこそ、そういう"写実"が可能になる。(57)
 "幻想"なる不可思議を求めるのが人間であるというのは、そもそもの話、その不可思議を求める人間自体が不可思議なものであるという、ただそれだけの話だ。
 日本の"幻想(ファンタジー)"とは、そもそもの話、そうした不可思議な肉体を持った人間が纏うべき"衣装"なのである。衣装に論理を求めてもしょうがない。衣装の論理とは、それを着ようとする人間の中にしかないものだからである。「"それ"を着たければ色気を持て」(61)

五月に鑑賞した作品

5/2 『ルートヴィヒ・B』 手塚治虫
5/3 『荒野の七人』 ジョン・スタージェス
5/4 『ファンタスティック・プラネット』 ルネ・ラルー
5/7 『新プロパガンダ論』 辻田真佐憲/西田亮介
5/11 『さすらいのカウボーイ』 ピーター・フォンダ
5/13 『ラ・ブーム』 クロード・ピノトー
5/14 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』 富野由悠季
5/18 『無頼の群』 ヘンリー・キング
5/22 『わが谷は緑なりき』 ジョン・フォード
5/27 『天地創造』 ジョン・ヒューストン
5/30 『徹底解剖!ベートーヴェン32のピアノ・ソナタ

四月に鑑賞した作品

4/3 『群盗荒野を裂く』 ダミアーノ・ダミアーニ
4/6 『踊る大紐育』 ジーン・ケリースタンリー・ドーネン
4/7 『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎大澤真幸
4/10 『ネバダ・スミス』 ヘンリー・ハサウェイ
4/13 『Wの悲劇』 澤井信一郎
4/18 『チャップリンの殺人狂時代』 チャールズ・チャップリン
4/20 『探偵物語』 根岸吉太郎
4/22 『ミネソタ大強盗団』 フィリップ・カウフマン
4/25 『小説伊勢物語 業平』 髙樹 のぶ子

三月に鑑賞した作品

3/2 『リオ・ブラボー』 ハワード・ホークス ※途中まで
3/3 『キッド』 チャールズ・チャップリン
3/7 『チャップリンの黄金狂時代』 チャールズ・チャップリン
3/9 『船弁慶』 金春流
3/11 『シックス・センス』 M・ナイト・シャマラン
3/16 『真夏の夜の夢』 シルヴィウ・プルカレーテ演出
3/18 『シラノ・ド・ベルジュラック』 鈴木裕美演出
3/20 『いちばんわかりやすい インド神話』 天竺奇譚
   『インド神話マハーバーラタの神々』 上村勝彦 
3/23 『男はつらいよ お帰り寅さん』 山田洋次
3/27 『地獄への道』 ヘンリー・キング
3/30 『世界残酷物語』 グァルティエロ・ヤコペッティフランコ・E・プロスペリ

二月に鑑賞した作品

2/2 『さまよえるオランダ人』 ポール・カラン演出 ※途中まで
2/4 『三人の名付親』 ジョン・フォード
2/10 『ドクトル・ジバゴ』 デヴィッド・リーン
2/12 『昼下りの決斗』 サム・ペキンパー
2/16 『夕陽のガンマン』 セルジオ・レオーネ
2/19 『女殺油地獄』 片岡仁左衛門
2/23 『捜索者』 ジョン・フォード
2/25 『新・写真論』 大山顕
   『卒業』 マイク・ニコルズ